Masuk「灯里が勝つところを、そばで見たいからだ」 燎は私を見たまま、真鍋の問いに答えた。説明会場脇の控室で、真鍋が黙る。 頬が熱くなった。手のひらまで、じんわり温かくなる。 私が勝つところを、見たい。 もう家で大人しくしていろとも、誰かに任せろとも言われない。この男は、私がやりたかったことを知って、一緒に勝とうとしてくれる。 嬉しかった。 今すぐ抱きつきたくなるくらい。でも、真鍋の前でそんなことはできるわけがなかった。 「一日なんて頼んでない」 「足りないなら増やす」 また、勝手に。 嬉しい。 でも、簡単に喜ぶ女だとは思われたくなかった。 「勝手に決めないで」 「今すぐ始めないと間に合わない。違うか」 違わない。そこが、なおさら腹立たしかった。 真鍋は何か言いかけ、口を閉じた。 「分かりました。病院側は私が引き受けます。開発の方は、どなたに声をかけますか」 燎は私へ目を向けた。 「形にするには、何が足りない」 「医師に何から見せるか、まだ決めきれてないの。診察する側の意見と、動くものにする人手が欲しい」 燎が、神崎修一教授とエリック・ウォルシュの名を挙げた。 一人は小児消化器の共同研究を率いる医師。もう一人は、海外の複数病院をつなぐ仕組みを作った技術者だった。 どちらも私が論文や講演で知っている人だ。父と、いつか意見を聞いてみたいと話したこともある。 真鍋が顔を上げた。 「お二人とも、面談の予定は半年先まで埋まっています。明日は難しいかと」 「俺が直接連絡を取る。明日の朝だ」 「待って。その二人に、明日?」 「会って何を聞くか、今から考えろ」 呼べることを疑ってもいない。 父と私が、どうすれば会えるだろうと話していた人たちなのに。 驚いたあと、急に楽しみになった。 私が開発で悩んできたことを、直接聞ける。 あの二人なら、どこを面白いと思うだろう。 断ろうとしていたことも忘れて、質問が浮かんだ。 燎は真鍋へ向いた。 「場所はSENOVAの開発室を使う」 真鍋が燎へ尋ねた。 「紗英様との会食は、どうなさいますか」 「俺から断る」 真鍋が控室を出ると、燎は電話をかけた。 「明日の食事には行けない。別の日にする」 静かな部屋に、女性の声がかすかに
「まだ離婚してないんだから、夫でしょう」 私は燎を睨んだ。説明会場では、まだ医師が次の選考について話している。 私の仕事を取られた話をしているのに、気になったのはそこ? 腹が立つ。けれど、燎がいつもの余裕をなくしているのは、少し嬉しかった。 正臣を夫と呼ぶだけで、そんな顔をするの? 「仕事の話をしているのよ」 「聞いている。負けたな」 今は、莉乃の方が進んでいる。それは分かっている。でも、燎にまで負けたと言われると、悔しくてたまらなかった。 「まだ終わってないわ」 「なら、勝て。NEXUS ONEを通るまでは、金は出さない」 でも、勝てるの? さっきの莉乃の答えを思い出した。何も言い返せなかった。次も、また私より先に評価されたら? 「俺を使っていい」 思わず燎を見た。 この人が一緒なら、勝てるかもしれない。 頼みたい。でも、ここで頷いていいの? 「……いらない」 こんなところで弱った顔を見せたくなかった。 「そう言うと思った」 「なら、放っておいて」 「プライドか?」 「あなたに借りを作りたくないの」 プライドは、もちろんある。でも、それだけじゃない。 助けてやると言われるたび、あとのことが怖くなる。仕事を渡し、生活まで任せたら、また何も言えなくなるのではないか。 正臣にも、最初は頼っていた。あの時だって、私のために動いてくれると思っていたのだ。 燎は私から目を離さなかった。 「それより大事なものがあるだろう」 「……何よ」 「息子のために作ったものまで、あの女に渡すのか」 息子を持ち出すなんて、卑怯だ。 断れなくなると分かっていて、言っているの? けれど、莉乃はもう動くものを見せた。私は考えただけ。三十日で追いつき、追い越さなければならない。 一人でやれると意地を張って、そのせいで間に合わなかったら? 莉乃に負けたくない。奏汰のために始めた仕事を、もう一度あの女の手柄にされるのは嫌だった。 「どう使えっていうの?」 「君に足りない人間と場所を揃える」 使えと言われても、どう使えばいいのか分からない。人に何か頼む時は、断られないように小さくしてきた。 この男は、どこまで頼めば嫌な顔をするのだろう。 「……条件は?」 燎が顔を寄せた。 「閉会
莉乃が、薄い端末をテーブルへ置いた。 「CARE-LINKです。ご覧ください」 同じ説明会場にいたNEXUS ONE側の医師が、莉乃の前へ出た。周囲の人たちも端末を囲む。 莉乃は正臣を見上げた。正臣がうなずくと、画面へ触れた。 食事、睡眠、薬、病院で測った数値が、一週間分並んでいる。 莉乃が腹痛の印を押すと、痛みが出る前の食事と睡眠時間が大きく表示された。病院での検査結果も、その横に出る。 父と二人で作った画面より、ずっと分かりやすい。 何度も画面を開き直さなくても、家と病院で起きたことを一緒に見られる。 さらに、莉乃は子供用の画面へ切り替えた。 身体の絵と、笑っている顔、泣いている顔が並ぶ。お腹を押し、泣き顔を選ぶと、医師が見る画面にも答えが現れた。 医師が、端末へ手を伸ばした。 「触ってみても?」 「どうぞ」 莉乃が端末を渡す。 医師は食事の印を押し、検査結果を開いた。もう一度子供用の画面へ戻ると、口元を緩めた。 「ワンダフル。これなら、小さな子も使えますね」 端末を囲んでいた人が、隣の男へ身を寄せた。 「あの画面なら、うちの子も答えられそうだ」 別の人も、見せてほしいと手を伸ばす。 世辞ではない。 私も、奏汰に使わせてみたいと思ってしまった。 「お腹が痛くなった時、その前に何を食べたか、眠れていたか。お薬のことも、一緒に見ていただけます」 莉乃が、落ち着いた声で言った。 奏汰が五歳の時、父の研究室で、私は同じことを言った。 ――痛い、だけじゃ昨日と今日を比べられない。食事も、睡眠も、薬も一緒に見たい。 それを、この女が自分の経験のように話している。 「あなたが、開発を率いているんですね」 医師が端末から顔を上げた。 莉乃は一度も私を見なかった。 「はい。私が責任を持っています」 莉乃は私と同じように、褒められた時だけ少し顎を引いた。 話し方まで似せる必要がある? 腹が立った。 私の言葉で説明し、私の仕草で褒められている。 でも、それだけではなかった。 前の面談では、質問の意味さえ分からなかった女が、この画面を迷わず動かしている。 説明を覚えただけかもしれない。 そう思いたかった。 「一つ、聞いてもいい?」 私が言うと、周
「特許ごときが、自分たちを守ってくれると思っているのか。ずいぶん楽観的だな」 NEXUS ONEの説明会場で、燎はまだ正臣を見て笑っていた。 「特許は使わない」 燎の言葉に、正臣が鼻で笑った。 「では、何も作れない。灯里には会社も、開発者も、試験データもない」 周囲で話していた人たちが、こちらを見る。 燎は正臣を見据えた。 「最初から作り直す」 「ちょっと。作り直すのは私よ。そんなの無理よ」 燎が私へ顔を向けた。 「なら、この二人に全部渡して諦めるか」 私は唇を噛んだ。 渡したくないに決まっている。二人には、何一つ。 でも、何年もかけて作ったものを、また最初から作り直すの? 奏汰が五歳の頃、腹痛の原因が分からず、食べたものも薬も睡眠も、私が一つずつ記録した。父と何度も設計をやり直した。 CARE-LINKは、そうやって作ったものだ。 簡単に言わないでよ。作るのは私なのに。 燎が一歩近づいた。 「同じものを取り返すだけで満足する女なら、俺はここまで賭けていない」 強い目が、まっすぐ私を見ていた。 「俺が欲しいのは、CARE-LINKじゃない。次を作る君だ」 「何を……」 勝手な男だ。 私より先に、私が次を作ると決めている。 この男は、私の身体だけでなく、研究者としての私まで欲しいと言っている。 私の全てを。 嬉しかった。 欲しがられていると思うと、身体が熱くなった。 今、燎にキスしたい。 あの夜みたいに、自分から。 それを知られたくなくて、燎から目をそらした。 正臣の会社にあるのは、私が作ったCARE-LINKだ。 莉乃は、その欠点を見つけた。 なら、私は何を作る? 九年前、顔も本名も知らない男と考えた、新製品の構想が浮かんだ。 毎日、患者や家族が入力しなくても、機器や病院から必要な情報が集まる仕組み。 あの時は、大きすぎる構想だと思った。 理論上は可能だ。簡単には作れない。 でも、SENOVAの仕組みを使えれば、すべてを一から作る必要はない。 何より、奏汰が腹痛で苦しむ前に、異変に気づけるかもしれない。 あの子のために、まだできることがある。 「やるわ」 私は燎を見た。 「あなたの会社の仕組みを使う」 「ああ、その
「違う」 自分でも驚くほど低い声が出た。 「勝っても、あなたは私にはならない。私が負けても、私は私よ」 莉乃の笑みが消えた。 ノートの角が、握りしめた指の下で折れた。 「……ならない?」 声がかすれた。本当にショックを受けたようだった。 けれど、莉乃はすぐに持ち直すと、また私の真似をした。私と同じ角度で顎を上げた。 「では、何を争うんですか」 「患者に届くものを作れるかどうか。それだけよ」 NEXUS ONEは、海外の病院と研究機関が、日本で一社だけ開発相手を選ぶ。 父が生きていた頃から、いつか挑みたいと話していた選考だ。 名前を奪い合うための場所ではない。 「きれいごとだ」 正臣が切り捨てた。 「会社名もない。人もいない。製品もない。そんな状態で、選ばれると思っているのか」 「SENOVAは、彼女の会社と共同で出る」 燎が答えると、周囲の何人かがこちらを見た。 「設立前の会社と?」 参加企業の男が、隣の男と顔を見合わせる。 正臣は鼻で笑った。 「基盤だけあっても、中身は作れない」 「CARE-LINKを設計したのは彼女だ。次も作れる」 燎は当然のように言った。 私なら、もう一度作れる。 燎は、そんなふうに思ってくれていたんだ。 嬉しかった。 正臣が莉乃の肩へ手を置いた。 「こちらには会社も、開発陣も、試験データもある。君を開発から外したあとも、準備は進めてきた。今さら勝てるとでも?」 正臣は莉乃へ、励ますように微笑んだ。 陰のある目元がやわらぐと、端正な顔は昔の優しい夫そのものに見えた。 研究の進捗を話すたび、私に向けていた笑顔だった。 もう、あの笑顔を取り戻したいわけではない。 それでも、私の仕事を奪った莉乃へ向けられると腹が立った。 隣で、燎が私をちらりと見た。 私は気づかないふりをした。 「何より、CARE-LINKの特許はこちらにある。それに、灯里も準備してきた。そうだろう?」 「ええ、私、勉強しました」 莉乃がノートから手を離し、私を見た。 「それで、欠点を見つけました」 「欠点?」 「患者本人が入れた記録も、家族が代わりに入れた記録も、今のCARE-LINKは同じ一件として並べますよね」 すぐには答えられなかった。
「出るに決まってるわ」 燎が満足そうに笑った。 「そう言うと思った。だが、久条も出る」 代表になった柊吾が出てくるだけなら、燎はわざわざこんな言い方をしない。 「誰が来るの?」 「相良莉乃が、CARE-LINKを持ってくる」 その名前を聞いた瞬間、腹が立った。 私が本物だ。 私の仕事も、父の会社も、あの女に渡さない。 偽物に、負けるわけにはいかなかった。 * * * それから一週間、私は毎日あの最上階へ通った。 ほとんど眠れないまま、燎が集めた技術者や弁理士と、CARE-LINKの設計を残して久条の特許を避ける方法を、朝から夜中まで探し続けた。 案はいくつも出た。 けれど、検証も、新しい特許を出願できる段階まで仕組みを固めることも、今日までには間に合わなかった。 翌週の午後、私は燎と並んで、都内の国際医療センターにあるNEXUS ONE選考説明会へ入った。 会場の前には、国内の医療企業や研究機関の関係者が集まっていた。 足を止めた私の腰へ、燎の手が回る。 「止まるな」 薄いスーツの生地越しに、指の力と熱が伝わった。 「怖がってない」 「知っている。腹が立っている顔だ」 燎が顔を寄せる。いつものコロンが、ふわりと香った。 「その顔を見ていると、今すぐ連れ帰って、俺しか考えられなくなるまで抱きたくなる」 あの夜の唇を思い出し、脚の間が甘く疼いた。 一週間も、あの続きをしていない。 悔しくて睨むと、燎は楽しそうに口元を上げた。 腰を抱かれたまま扉をくぐる。 正面に、正臣と莉乃がいた。 莉乃は白いシャツに黒いスーツを着ている。髪も短くまとめ、使い込まれたノートを胸に抱いていた。 一週間前より、また私に似ていた。 目元が少し腫れている。寝不足にも見える程度だった。 けれど、二重の幅と目尻の角度が、前より私に近い。 何か、変わった? 私の視線に気づくと、莉乃は私と同じ角度で顎を上げた。 正臣の視線が、私の腰にある燎の手で止まった。 陰のある目元が、すっと冷える。 「その手を離せ」 近くにいた男たちが会話を止めた。 燎は手を離さない。 「誰に命令している」 「僕の妻に触るな」 「正臣さまの妻は、私です」 莉乃がすぐに言った。 そ







